心の居心地を整える。11月26日に得た知見。
こんにちは。自分にとっての居心地のよさについて考えるライター、とりのささみこです。
今日(11月26日)は偶然、自分のなかの深い部分まで潜ることになりました。
※結局日をまたいでしまったけど、変わらず”今日のこと”として書きます。
わりと一気に、勢いよく潜ったので反動で息が苦しくなってしまったけど、水面まで戻ってきたときにそれなりの成果がありました。
「これは、この先、わたしの心の居心地を整えるのに必要な気付きだ」
そう思ったので、潜った感覚が残るうちに、文章を書くことにします。
情報を整理して伝えるもの、というより脳みその棚卸にお付き合いいただような投稿になるかもしれません。
フィンランド編の途中だけど…
このブログ「居心地研究室」では、**”自分にとっての居心地のよさとは?”**という問いを軸に、わたしが体験したことや考えたことを書いている。
ドメインをとったり諸々のセットアップをしたのは去年のちょうど今頃。最初は別の名前で始めて、だけどなんだかしっくり来ず。
うーん?と首をひねっていたけど、
「わたしは、自分にも他人にも、居心地よく生きていてほしいんだ」
と気が付いて、春、「居心地研究室」という名前で再出発した。
最近はこの記事と
この記事で
夏のフィンランド旅行のことを書いている。
フィンランドがとても素敵で、わたしにとって居心地のいい場所だったからだ。
今でもちゃんと思い出せる。
ヌークシオ国立公園にたつロッジのバルコニー。夜が近づいてもなかなか日の沈まないフィンランドだけど、吹く風はたしかに昼よりひやっとしている。
その風がざわ、ざわ、と森の木立を渡っていくのを聞きながら温かいハーブティーを飲んでいたとき。
「ああ、いま、とても居心地がいいな。幸せだな。フィンランドのこと、ブログに書きたいな」
と思ったのだ。
なのに、わたしがフィンランドについて書いた記事をはじめてブログにアップしたのは、帰国してから2か月以上経った10月のはじめ。
そしてその続きを書いたのは、さらに1か月半後だった。
月曜日、ようやく記事をアップできた時はホッとした。ある疑問に対する答えもひとつ出せたので、達成感もあった。
が、今度は別のモヤつきが。どうしてこんなに書くのに時間がかかってしまったんだ?
記事でもこんなことを書いている。
またもやブログ更新が止まっていた。わお。
「次にフィンランド行くならクリスマスシーズンがいいなぁ」なんて言ってたら、もうすっかり世の中ジングルベルの季節になってしまった。
「もしかしてわたし、本当はブログなんてやりたくないんじゃないか?」と自分でも思ったりするが、よくよく心の声に耳を傾けてみると、やっぱりブログは続けたいし、フィンランドのことは書きたい。
やりたいと思っていることほど、いざとなると後回しにしてしまう……なぜなんだ?自分。
フィンランドについて、書きたいことはまだある。だけど、この問題に向き合うことが大切だと感じた。
そしたら今日、ちょうどその機会を得たので、フィンランド編の途中に差し込む形でこの記事を書いている。
カウンセリングで相談してみた
今日は心療内科に行く日だった。
4月、心のバランスを崩したわたしは、それ以来2週間にいっぺんのペースで通院して薬を処方してもらっている。
調子を崩したときのことは、このブログではなく、noteに書いた。
受診日の流れは、こう。
医師の診察前に、まずは10分程度のカウンセリングを受ける。
そこで、前回の受診から今回までの体調の変化や、思ったこと、いま抱えている悩みなどを話す。
ひととおり話し終えたら、その場で次回の予約をとる。
そのあとの診察室では、大して長い時間を過ごさない。体調はどうか、などの軽い問診を受け、「じゃあまたお薬出しておきますね」と言われ、終了。
受付でいつもの処方箋をもらい、会計をして、調剤薬局へ向かう。
心療内科に通うのはこの病院がはじめてだけど、他のひとの体験談や書籍をみる限り、だいたいのクリニックは同じ流れのようだ。
今日も、いつもと同じ看護師さんにカウンセリングをしてもらった。
彼女はマスクとメガネをしているので、顔はほぼ見えない。けど目元の表情がとても豊かだ。
わたしの話すことに、目を丸くしたり、細めたり、ほころばせたりしながら「聞いていますよ」を伝えてくれる。
ここ数日の体調や心の具合を軽く話したあと、わたしは、いま最大のトピックを口にした。
「やりたいことほど後回しにしちゃいがちで、そんな自分にモヤモヤしています」
どうして”やりたいこと”を、後回しにしちゃうの?
自分が理想とする姿があり、そこに近づくために「やりたいこと」もある。なのに、それを後回しにしてしまう。わたしにとっては数年モノの根深い悩みだ。
たとえば最近は、「ブログ書きたい」と思っていたのに、空いている日にどんどん他の予定を詰め込んでしまった。
いざまとまったひとりの時間が生まれても、「そういえばこれが気になってたんだっけ…」と家事や読書、調べごとに手を伸ばす。
いざ書き出しても、すぐに集中力が切れてだらだらとスマホでSNSを見たり漫画を読んだりしている。
気付いたら流れている時間。湧きあがる自己嫌悪。
あーあ、まただ。また私は、自分でやろうと思ったことができなかったんだ。
そんなことをもう何年も続けている気がする。
「前に、思ったことがあるんです。わたしは、手遅れになりたいのかもなって。今さら頑張ってももう巻き返せないから諦めてしまおうって、ラクになりたいのかもしれない」
うん、うん、と聞いていた看護師さんが、ここで、こんな質問を投げかけてきた。
「子どもの頃からそうでしたか?」
うっと胸を突かれた気がしたのは、自覚があったからだ。昔はこうじゃなかった。
「いいえ。違いました」
子どもの頃は、もっと、やりたいことに一直線だった。
「この、やりたいことっていうのは、『遊びたい』とか『これを食べたい』とか、そういうことじゃないんです。もっと長期的な、将来なりたい姿があって、『そこにたどり着くためにこの勉強をしよう』とか、そういうことです」
「なるほど」と、うなずく看護師さん。でも、なんとなくイメージがつかみ切れていなさそうな感じが伝わってくる。
一瞬迷った。けれど、「いいや」と思った。吐き出しちゃえ。
わたしは、過去のことを看護師さんに話した。あまり簡単には人前に出さない話だ。
興味をもって読んでくれる方には申し訳ないけど、ここにはあっさり書くにとどめておく。というのも、カウンセリングでこの話をしていたらどんどん感情が高ぶって、しまいには涙を止められなくなってしまったからだ。
今でも鼻の奥のツンとする感じ、目頭の熱くなる感じが残っている。詳しく書いていたら、必要以上にじくじくと湿っぽい文章になってしまいそうだ。
幼い頃から作家になるのが夢だったわたしは、中学生のとき、その夢に一歩近づく機会を得た。
踏み出したからこそ分かったのは、先に続く道のりがずっと長いということ。その長い道のりの中でみたら、せっかく踏み出した一歩も、ずいぶんちっぽけに感じられること。
それでも10代のわたしには意欲と、熱意と、負けん気があって、諦めなかった。ブログを書いて発信したり、小説や詩を書いて公募に出したり。
でも結果は伴わない。
自信はだんだん削られて、熱量も小さくなって、ついにまったく書けなくなった。それが20歳くらいのころ。
思い込みかもしれない。けど、先延ばしグセがついたのも、ちょうどその頃の気がする。
その後は流れで大学生活を終え、流れで社会人になり、でも気付いたらまた文章を書いていて、「ああこれはどうしてもやめられないんだな」と気付いたのがいま、30歳になったわたしだ。
今度こそ、あの頃のわたしが火の玉みたいに燃え上がらせていた「書くことを仕事にしたい」という夢を叶えよう。
……と、思って会社までやめたのに。自分が書きたいこともちゃんとあるのに、それを先延ばしにしてるのは。
「あの頃の、10代のわたしを諦めさせたいのかもしれません。今さらがんばっても遅いところまで来てしまったんだから、ラクになるのを許してほしいって」
問題は、”後回しにすること”じゃない?
看護師さんはわたしが落ち着くのを待って(この時はもう、ぼろぼろ泣いてしまっていた)、それから口を開いた。
まず教えてくれたのは、「逃げてもいいんですよ」ということ。
「ずっとひとつのことだけに全力を出し続けるのは難しいじゃないですか。もちろん、自分の夢や目標に向かってエネルギーを注ぎ続けられるひともいますけど、それはひと握りの、アインシュタインみたいな天才だけです。だから、自分のことを責めないでください。逃げたいって思うのは、人間として当たり前のことですし、他のことをしたくなるのも普通のことなんです」
アインシュタイン、に思わずにやっとした。大谷翔平とか言われなくてよかった。同じ時代の同じ年齢のひとじゃなくて、何十年か前のおじさん。
と思っていたら、看護師さんは「たとえばスポーツですけど」と話を続けた。
「プロになるまで続けるひとと、途中でやめるひとがいますよね。でも、やめるっていう選択肢の中にも色々あるんです。別の目標を見つけたり、自分の中で『やり切った』と言えるところまでたどり着いたり。一番、不完全燃焼になってしまうのが、『諦めた』と思ってやめてしまうことです」
ですよね…と頷く。「やり切った」と思ってやめるのと、「諦めた」と思ってやめるのは、似ているようで全然違う。
「でも、さっきも言ったように、やっぱりずっと同じことを頑張り続けるのはしんどい。ですよね?そしたら、その間別のことをしていて全然いいんです。苦しい状況からいっぺん離れてみて、それでもまだやりたいことなら、戻ってみるとか」
今度は、頷けない。看護師さんの提案していることは、まさにこの10年間、わたしが選んできたことであるように聞こえた。そうやって苦しみから離れて、別の道を進んで、それも苦しいから戻ってきたのが、いまだ。
また涙がにじんでしまった。そのとき看護師さんがどんな目をしていたのかは見えなかった。
「ささみこさん(実際は本名で呼ばれている)は、自分をつよく責めてしまっているんですね。だから自信をなくしてしまっている状態にいる」
(あ、そうか)
わたしが気が付いたのは、この時だった。
わたしの心の居心地を悪くしているのは、やりたいことの後回しグセではなく、それを責め立てる自分自身だ。
「自信を取り戻すために、まずは自分のしていることを認めてあげてください。そこから始めてみましょう」
自分に自信がないこと。確かに、問題の根っこはここにある気がする。
「どうでしょう、できそうですか?」
いつもだったら簡単に、「はい、やってみます」と言っていただろう。けど、触れたくなかった過去の話まで掘り出したことで、
だから、口から出てきたのは「ちょっと難しいかもしれないです」という言葉だった。
自分を認めてあげるには
看護師さんの目元がほころんだ。「よく言えました」と、褒められているような気がする。
「日記をつけてみるといいですよ。その日あったことを、なんでも書き出していくんです。洗濯したとか、お菓子を食べたとか、そういうことで構いません。その中にかならず、ささみこさんが、ささみこさんのためにできたことがあるはずです」
「日記はつけているんです。あ、でも、」
毎日、手帳に書いているメモを思い起こす。その日の体調や、思ったことや感じたことを書いている日記。
「自分で自分を評価するような、そんな感じで書いてしまっていたかもしれないです。こういうことがダメだったな、とか、反省文みたいに」
そんなの、かえって逆効果じゃないか。自分で言っていて気が付く。でも日記をつける習慣があるのはいいことのはずだ。どうしたらこの時間を、心の居心地をよくするためのものに変えられるだろう?
さらに考えて、しゃべり続けてみる。
「箇条書きみたいな、シンプルな形にしたほうがいいのかもしれません。そのほうが簡単だし。それで、書き出したもののなかで、『これは自分のためにできたことだ』と思うものにマルをつけるとか…?」
「いいと思います!」看護師さんの声が弾んだ。「日記って、夜書いてますか?」
基本的には、と頷くわたし。
「夜は1日のなかでいちばん、エネルギーが低下する時間で、気持ちも沈みやすいんです。その時間に、自分のしたことを認めてあげられると、楽しい気持ちで1日を終えることができると思いませんか?」
確かに。ていうかこれ、最近読んでた土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』にも似た感じのことが書かれていた気がするな……と思いを馳せながら、「あ、でも、」とまた、ちょっと後ろめたい気持ちで口にしていた。
「夜疲れてしまって書けずに寝ちゃって、次の日になることもあります」
「もちろん!朝から楽しいほうが、もっといいじゃないですか!」
間髪入れずに肯定してもらえて、なんだかこそばゆい。
本当は朝もバタバタして、結局昼過ぎまで手帳を開く時間がもてなかったり、なんなら翌々日まで持ち越したりすることもある。けど、それを問題だと思う必要はないのだ。「これができなかった」「あれができなかった」と悩むマインドのほうを変える訓練なんだから。
その日にあったことを書き出してみる。そのなかで、「自分のためにできた」「これは良かった」と思えるものに、マルをしていく。
イメージをしてみたら、ふわっと心が浮き上がるような感じがした。
あ、と思った。
深く潜った場所から、光がみえるところまで戻って来た。
自信を持てるようになりそうだ、と、こんなにしっかり思えたのははじめてかもしれない。きっと深い深い底の方まで一気に沈んだから、きちんと浮かんでくることもできたんだろう。
こんなブログの使い方も、いいかもしれない
カウンセリングを終えて、結局3日かかったけど、11月26日という今日のことをばーっと文章にしてみた。
ロクに写真もなく、文字だけが続く投稿になってしまった。でもこんなブログの使い方もいいかもしれない。
つくづくカウンセリングは侮れないな、と思う。
最初に受けるまでは「ただお話しするだけでなんの解決があるんだろう」と思っていたけど、対話をしていると色んなことに気が付く。不意に浮かんでくるものがあったり、もしくは今日みたいに深い場所へ潜れることがあったりする。
目の前の相手に伝わっているかどうか、反応をみながら言葉を紡いでいくライブ感が作用しているのだろうか。
ちなみに、”箇条書き日記”はさっそく当日からつけている。これが不思議なことに、書いていると、マイナスなことより「よかったな」と思うことのほうが浮かびやすい。すでにちょっと、気分がいい。
その中で、「これは自分のためにできたことだ」と思えるものにマルをつけていく。こっちは、意外と少ない。「よかった」と思うことを多めに書いているはずなのに。でも1個でもあると、ほっとする。
効果はあるんだろうか。発作のように重くのしかかってくる自責感情を、冷静に受け止めたり、跳ね返せるようなひとになれるんだろうか?
まだわからない。でもこれだけは言える。この箇条書き日記さえしていれば、その日のわたしは、確実にひとつマルを自分にあげられるのだ。






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